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   中世、北近江は天下統一を夢見る武将たちによる戦いの場となった。『姉川合戦』『賎ヶ岳合戦』『関ヶ原合戦』等。その「兵達の夢の跡」を尋ねてみませんか。そこには現代の私達に何か語りかけてくれるものがあると思います 

 古戦場 写真
 姉川の戦い  
 元亀元年(1570年) 織田信長は同盟を破棄した浅井長政を攻めるため、6月19日に西美濃から近江国に侵入した。一度は小谷城下まで迫ったが、無理攻めは危険が多いと判断し、一旦軍を下げた。この後、小谷の支城である横山城を包囲し、援軍の徳川家康軍と共に、尾根の北端にある龍ヶ鼻に陣を置く。これに対し、浅井軍は越前から来援にきた朝倉景健軍と一時大依山に拠ったが、28日未明までには、、姉川対岸の野村、三田村に移動した。
 両軍、
姉川を挟んで対峙することになったが、信長の正面には浅井軍が、家康の正面には朝倉軍が位置する形となる。合戦は28日未明に始まり、浅井・朝倉軍にとっては致命的な敗戦とはならなかったものの、勝利はできず後退した。
 
姉川合戦写真-1 姉川合戦写真-2
 【雪の姉川古戦場跡浅井・朝倉軍18.000人で対する織田・徳川軍29.000人が姉川の両岸に布陣し、合戦を展開した。午前5時に始まり午後2時に終わったとされる。 右写真後ろの山は七尾山で姉川合戦の日、地元の農民達は難をのがれるため登ったと言われている。
 姉川合戦写真-3   姉川合戦写真-4 
【横山城】 姉川合戦の前には浅井家臣の上坂氏、三田村氏、野村氏が籠城していた。姉川合戦はこの籠城軍を取り巻く織田・徳川連合軍の後詰として、浅井・朝倉軍が南下したことから勃発した。合戦後は秀吉が城番に入り浅井氏攻めの最前線として使用された     
 姉川合戦写真-5   姉川合戦写真-6 
左の山(横山)の先が龍ヶ鼻。右奥に見えるのが小谷山。手前に流れるのが、姉川    【姉川戦死者の碑】姉川合戦に浅井長政軍として出陣した新庄直頼の子孫が建立した 
 姉川合戦写真-7   姉川合戦写真-8 
【龍ヶ鼻より姉川合戦地を望む】 信長と家康は本陣を龍ヶ鼻に置いた。浅井・朝倉軍は包囲された横山城を救援するため、大依山まで出張したが、両軍は28日未明、決戦を意識して、姉川両岸まで前進、合戦の火蓋が切られた    【龍ヶ鼻より姉川と伊吹山を望む】 
 姉川合戦写真-9   姉川合戦写真-10 
 【大依山と 浅井歴史民俗資料館】大依山は浅井・朝倉軍が一時陣を張った場所。浅井歴史民俗資料館には浅井三代に関する資料が常設展示されている    【陣田】 28日未明、浅井長政は大依山よりこの地まで移動し、指揮をとった。今は面影がないが、小高くなっており、合戦の場がよく見渡せた。正面の山が横山で中央手前に龍ヶ鼻が位置する 
 姉川合戦写真-11   姉川合戦写真-12 
 【織田信長の本陣跡】 合戦当日の朝、信長は龍ヶ原砦にいたが、姉川北岸への浅井・朝倉軍の展開を知って、この場所に本陣を構えた。ここに立つ柳は信長が陣太鼓をかけて指揮をしたという伝承から『陣杭の柳』と言われる。現在の柳は4代目である。(バックの山が小谷山)    【徳川家康本陣跡】 左端の山が岡山。姉川合戦時の徳川家康本陣で、家康が戦いに勝ったことに因んで「勝山」と呼ばれるようになった 
姉川合戦写真-13   姉川合戦写真-14 
 【血原跡】 姉川の北岸にあり、朝倉軍と徳川軍の決戦の地となった場所で、多くの戦死者の血で染まったので「ちはら」と呼ばれる。   
 姉川合戦写真-15   姉川合戦写真-16 
【血川跡】 合戦で血に染まったと伝えられる血川が流れていた場所。(姉川自体が血に染まるとは考えにくいが、この水路が血に染まったことはありえるかも)。昭和60年に完成した野村町の圃場整備により流路がなくなった。    【遠藤喜右衛門の墓】 浅井長政の重臣・遠藤喜右衛門直経は、味方の武将の首1つを携え敵軍に偽装、信長の首を狙って、その陣中深く忍び込んだ。しかし、信長の家臣竹中重矩(半兵衛の弟)に見破られ討ち死にしたと言われる当地は討死場所と伝え、小字も「円藤(遠藤)」と言う。(バックに小さく小谷山を望む) 
 姉川合戦写真-17   姉川合戦写真-18 
【三田村氏館跡】 京極・浅井氏の家臣で、姉川北岸で大きな勢力をほこった三田村氏の屋敷跡。姉川合戦に際しては、朝倉景健の本陣として使用されたと考えられている。    【七十士の墓】 姉川合戦の戦死者を弔う五輪塔や宝篋印塔が多数置かれている。 
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【上坂氏館跡】浅井氏の家臣で、中世から江戸時代まで、北郷里地区を灌漑する「郷里井」を管理した。複数の城館があった館跡には、土塁の一部が残る。   【陣屋橋】橋の名前が刻まれた石柱が4本残っている。「陣屋」とあるが、長政本陣に関係するかどうかは分かっていない。

 元亀争乱 このページの トップへ戻る  
 姉川合戦の後、信長は退却する浅井、朝倉軍を追って小谷城下を放火したが、城攻めは避け、合戦後に接収した横山城に木下秀吉を入れ、自らは京都へ戻った。その後、「志賀の陣」「箕浦表の合戦」など両軍の戦いが続き(姉川合戦を含め元亀争乱という)、3年後の元亀4年9月1日、長政の自刃で、小谷城が落城浅井三代50年の歴史が幕を閉じた

 元亀争乱写真-1   元亀争乱写真-2 
【小谷城址碑と浅井家供養塔】小谷城址碑は昭和4年5月建立。大広間の南側に立っている。 
(小谷城は浅井三姉妹コースも参照して下さい)
   【首据石京極氏の有力被官だあった今井秀信が裏切ったため神照寺で殺害し、首をここに晒した。
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 【京極丸跡】亮政に迎え入れられた京極高清が居を構えたところ。天正元年(1573年)秀吉が西側の虎口から急襲し、本丸の長政と小丸の久政を分断した。    【赤尾屋敷跡】浅井氏の重臣赤尾氏の屋敷跡。
最後の攻撃に打って出た長政は信長の兵に攻められ、帰ることができずやむなく赤尾氏の屋敷に入り自刃した。享年29歳であった。
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 【山王丸南東の大石垣】 山王丸は小谷城主要部の最高所に位置し、山王権現が祀られていた。
山王権現は、現在小谷神社と名称が変わり、小谷寺の一角で祀られている。東面には高さ5mの大石垣が残っており、枡形の虎口など規模は本丸を上回っている。
   【大嶽城跡】大嶽上は朝倉氏の援軍が守備していたが、浅井氏の家臣浅見氏が信長に寝返り、手引きした。裏側の山より尾根伝いに信長軍が攻めて来て落城した。 
 (小谷城は浅井三姉妹コースも参照して下さい)
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 【佐和山城】姉川合戦に敗れた浅井氏家臣のうち、磯野員昌らは、佐和山城に入城し、信長に抵抗をこころみるが、信長はこれに丹羽長秀を当て見張らせた。    【磯野山城址】磯野員昌は浅井氏の重臣として、姉川の合戦でも活躍するが、元亀二年(1571年)に佐和山城から撤退する時、信長方に離反する。(写真は高月町磯野にある磯野氏の城跡)
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【長比城】近江と美濃の国境、東山道を押さえる要衝にあり、長政は信長の近江侵攻に備えるため、刈安尾城とともに、長比城の改修を朝倉氏の援助で行った。     【鎌刃城】京極氏六角氏の攻防や織田信長浅井長政の攻防の舞台となった戦国時代の山城。石垣、堀切、曲輪などが見事に残り、その遺跡の規模は湖北でも最大級で、国の史跡に指定されています。
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 【箕浦合戦】元亀2年、浅井軍と豊臣秀吉が率いる信長軍が米原市箕浦で戦った合戦。浅井軍は顕如の依頼で蜂起した門徒衆であり、つまり一向一揆である。  5000人で編成された浅井軍は、わずか足軽500人の秀吉軍に切り崩され、1里ほど離れたさいかち浜まで追い詰められ、溺死させられたと言われている。(右の写真はさいかち浜付近の琵琶湖)  
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  【山本山】小谷山とそこから西方へ6kmの湖畔にある山本山。この二つを結ぶラインは小谷城防御の重要な役割を担っていたが、山本山城主・阿閉貞征(あつじさだゆき)は秀吉の凋落によって織田方に下り小谷城は孤立。(後ろに見えるのが小谷城。又山本山から左側に琵琶湖岸にそって賎ヶ岳まで山塊が続く。    【小谷城より虎御前山を望む】虎御前山は四方に見通しがきく独立丘陵で、小谷城のすぐ南面に位置するため、信長にとって最前線基地を築くのに適していた。一方小谷城からは信長軍の大軍の動きが一望でき、不気味であったであろう。
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 【虎御前山と小谷城】姉川の合戦後、信長は横山城に前線基地を置き、浅井氏攻略を図ったが、元亀3年7月以降は、小谷城の眼前まで包囲網を縮小し、虎御前山に砦を構え、持久戦に備えた。7月27日から築城を開始。8月中には完成をみたようだが、かなり大規模な普請であった。
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 【軍用道路】信長は小谷城攻めのため約9Km離れた虎御前山と横山の連絡を密にするため、条里制に逆らって斜めにショートカット道を作った 元亀3年(1572年)に開かれた三間半の道である。   【虎姫時遊館】虎御前山の麓にある資料館。戦国武将を中心に虎姫や近江の地の歴史をさぐる展示室などがある。
 
元亀争乱写真-19  元亀争乱写真-20   元亀争乱写真-21
 【虎御前山の織田信長陣跡】小谷山の目と鼻の先、南北に伸びる虎御前山には、小谷城攻めの時に敷かれた織田軍の陣跡が残っている。尾根に沿って南から、多賀貞能、蜂屋頼隆、丹羽長秀、滝川一益、堀秀政と続き、信長は一番高い場所に陣取っている。その北、小谷城に近いところに、木下秀吉、柴田勝家の陣がある。
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 【寂寥山大吉寺】この寺は比叡山延暦寺の末寺であるが、古代から中世にかけて、多くの僧坊を擁し繁栄を極めていた。しかし元亀2年(1571年)に起きた比叡山焼き討ちに関連し、大吉寺も元亀3年に信長に焼かれてしまった。    【小堀氏屋敷跡】近世日本を代表する芸術家である小堀遠州の父、正次浅井長政の家臣であった。その後正次は長浜城主となった羽柴秀吉やその弟の秀長に仕え、さらに、関ヶ原合戦後は徳川家康に仕え、備中松山城主として1万石を領している。
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【垣見氏邸宅】神崎郡(現東近江市)垣見の出身とされるが、坂田郡での活動は室町中期から確認できる。忠実な浅井氏家臣であり、小谷落城 12日前に浅井長政から送られた感謝状の存在は有名。   【下坂氏邸宅】南北朝期までさかのぼる「国人」で、下坂荘の地頭でもあった。戦国時代は京極氏浅井氏の家臣で浅井長政と共に小谷城に籠城し、織田信長木下秀吉と戦っている。
 
 賤ヶ岳の戦い このページの トップへ戻る  
清洲会議で信長の三男・織田信孝を推す柴田勝家織田信忠の子三法師(信長の孫・のちの織田秀信)を推す羽柴秀吉との間で激しく対立した。結果的に主導権を握った秀吉は自らの主催で大規模な信長の葬儀を執り行うとともに、美濃の織田信孝を降伏させ、伊勢の滝川一益を攻撃した。一方、越前北ノ庄にいた柴田勝家は雪のため動けずにいたが、これらの情勢に耐え切れず、ついに天正11年(1583年)2月末、雪をかき分けて出陣した。
 両軍は賤ヶ岳付近で向かい合った。しばらくはにらみ合いが続いたが、再び動き出した信孝や一益を牽制するため、秀吉が戦場を離れた隙に柴田軍の佐久間盛政が奇襲をしかけた。すると大垣城から秀吉は電光石火、近江へ戻り(秀吉の大返し)盛政を襲撃。このとき「七本槍」の活躍や前田利家の撤退もあり、柴田軍は総崩れとなり、秀吉の勝利に終わった。 
賤ヶ岳の戦い写真-1    賤ヶ岳の戦い-2
賤ヶ岳の戦い-3    賤ヶ岳の戦い-4
 【賤ヶ岳頂上にある兵士の像と石碑】   【合戦戦没者を弔うお堂】賤ヶ岳山頂付近にあり「山開き」の時と春の「賎ヶ岳祭り」で供養が行われている。
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 【賤ヶ岳山頂よりびわ湖余呉湖を望む】    【賤ヶ岳山頂より余呉湖を望む】
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南岸の国民宿舎余呉湖荘付近から望む余呉湖。手前の尾根は秀吉陣営。遠くに柴田勝家の陣営を望む。     【堂木山隘路】秀吉は余呉湖の北で東に張り出す堂木山(写真左)と、西に張り出す東野山(写真右)。この2つに挟まれ、北国街道の両側が接近する堂木山隘路に柵を2重に造って第1次防御ラインとした。
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  【冬の賤ヶ岳】北岸にある『羽衣伝説、衣掛け柳』から賤ヶ岳方面を望む。    【冬の東野山砦】実山・左禰山(さねやま)ともいう。北国街道の東側、東野山に造られ、秀吉軍の最前線を守った。
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 【余呉湖西岸より大岩山を望む】岐阜の織田信孝が挙兵した報せを聞いた秀吉は大垣へ入った。秀吉不在のうちに戦いを展開しようと考えた、勝家側の佐久間盛政は4月20日、行市山砦から権現坂を越え余呉湖の南をまわって、大岩山砦へ奇襲をかけてきた。    【尾の呂が浜】馬を洗っていた中川清秀の馬屋係二人が突然現れた佐久間盛政の兵に切り殺され賤ヶ岳合戦の火ぶたが切られた。一進一退の戦いが繰り広げられたが、盛政軍5千人に対し千人の清秀軍は多勢に無勢で、清秀は覚悟を決め本丸で自害した。 
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 【岩崎山砦跡】大岩山の北に当たる岩崎山には高山右近。南に当たる賤ヶ岳には桑山重晴がいた。しかし、中川清秀からの応援要請に応じず、両部隊ともさっさと逃げてしまった。   【七本槍の地】大山砦奇襲の報を聞いた秀吉は大垣から52kmもの道のりをたった5時間で取って返した。ふいを突かれた柴田軍は急ぎ退却に切り替えるが、秀吉子飼いの部下『七本槍』の活躍もあり、壊滅状態に追い込まれた。 
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 【槍洗いの池】柴田勝家側にも青木新兵衛という槍の名手がいて、血糊のついた槍を余呉湖の水で洗った場所が、槍洗いの池として史跡になっている     【左衛門の辻】秀吉が、東野山と堂木山をつなぐように連珠の砦を作った場所。また、秀吉が敵の首実検をし、検査を終えた首を埋めたため、『首塚』ともいわれる。 
賤ヶ岳の戦い-17    賤ヶ岳の戦い-18
 【毛受兄弟の墓】柴田勝家の身代わりとなり、最後まで支えた毛受勝助家照と兄の茂左衛門兄弟を地元住民は今なお手厚く供養し、忠義義勇の士として語り継いでいる。    【毛受兄弟の菩提寺・全長寺】全長寺には位牌が安置され、供養祭などが執り行われている。
賤ヶ岳の戦い-19    賤ヶ岳の戦い-20
 【横山半喜長隆の墓】高月町横山出身で前田利家の家臣。前田軍が戦わずして戦線離脱した際、殿をつとめ、敵に包囲されて吉祥院の境内で自害した。    【勝居神社】秀吉は賤ヶ岳合戦に赴く際、ここに立ち寄って必勝を祈願し、「ゆく先のいくさにかち居明神の 利生は旗の竿にありけり」と詠んだ。
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【狐塚】佐久間盛政が大岩山を攻めたとき、それを援護するため、勝家が本陣を玄蕃尾城から南進させてきた場所。しかし、盛政隊は総崩れとなり、勝家は毛受兄弟に後を託し、ここから越前へと敗走した。 ≪今市のこの辺りと思われる≫   【別所山近くから秀吉軍を見る】柴田軍の最前線の陣城である 前田利家・利長親子別所山砦から秀吉軍の堂木山砦、田上山砦等が見下ろせる。
賤ヶ岳の戦い-23    賤ヶ岳の戦い-24
 【行市山山頂】佐久間盛政の砦跡となっているが、実際はもう少し南の秀吉側砦が良く見える場所に砦跡がある。   【行市山砦から秀吉軍を見る】 秀吉軍の東野山砦、堂木山隘路方面を見下ろせる。
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 【玄蕃尾城(内中尾山城】柴田勝家が、北庄城と長浜城の中間点となる越前と近江の国境線上に築いた。当初勝家は本陣をここに置いたが、合戦当日は南にある前線の狐塚に移した。城跡は、直線的な土塁と横堀によって築かれており、さらに馬出を設けるなど敵が城内で直進できない複雑な造りになっている。  
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 【脇坂陣内屋敷跡】賤ヶ岳七本槍の1人、脇坂陣内安治の生誕地が小谷城の麓、大字丁野(ようの)にある。 関ヶ原の戦いでは 小早川隊同様東軍に寝返り、後に伊予国(愛媛県)大洲の大名になった。又、子孫は播磨国(兵庫県)龍野城の城主となった。右の写真は「産湯の池」と言われている。
賤ヶ岳の戦い-29   賤ヶ岳の戦い-30
【片桐且元屋敷跡】同じく賤ヶ岳七本槍の1人、片桐且元の生誕地も小谷城と山続きの須賀谷にあり 小谷城の落城まで浅井方として戦った。その後、長浜城時代の羽柴秀吉の家臣となり、秀吉死後は秀頼を補佐し、豊臣氏と徳川氏の対立を避けることに尽力した。方広寺鐘銘事件豊臣方の信任を失い、大阪城を出る。大阪落城後、豊臣を見捨てたと世の批判を受け、切腹したといわれる。
 関ヶ原の戦い  このページの トップへ戻る
 慶長5年(1600年)4月、徳川家康は上杉征伐のため大阪城を出発した。この家康の不在が石田三成ら反徳川派が挙兵するきっかけとなった。豊臣政権の存続のためには家康を排除すべきと考えた三成は総大将に毛利輝元を迎え、宇喜多秀家らを味方に引き入れ、大阪で兵をあげた。
 この情報を受けた家康は、北関東小山で軍議を開いた(小山評定)。この時、福島正則ら武断派大名たちが、三成打倒の意思を表明したため、家康は上杉征伐を中止し、諸大名をまとめ(東軍)三成の軍勢(西軍)と対決すべく、畿内をめざした。
 古来、軍事上の要地であった関ヶ原で対峙した両軍はともに約8万と拮抗していたが、山に陣取った西軍がやや優勢であった。9月15日朝8時頃開戦。序盤は石田三成、大谷吉継、宇喜多秀家、小西行長らの奮戦により西軍の優勢。11時頃三成は戦闘に参加しない毛利小早川に参戦を促すのろしを上げるが、動かず。正午頃、東軍に内通していた小早川が寝返り、形勢が逆転。14時頃西軍は敗走した。


関ヶ原の戦い-1    関ヶ原の戦い-2
関ヶ原の戦い-3    関ヶ原の戦い-4
 【笹尾山・石田三成陣跡】 西軍、総大将石田三成は関ヶ原が一望できるこの地に陣をかまえ竹 矢来を2重に張りめぐらし、前面に島右近、中間に蒲生郷舎を配置した。三成は大砲を五門作らせ、笹尾山に設置した。耳をつんざく轟音に東軍の将兵の心胆を寒からしめた。  
 関ヶ原の戦い-5    関ヶ原の戦い-6
 【笹尾山より徳川家康の陣を望む】   【桃配山より丸山方面を望む】
関ヶ原の戦い-7   関ヶ原の戦い-8
 関ヶ原の戦い-9    関ヶ原の戦い-10
 【桃配山】 徳川家康が最初に陣をおいた場所。右上の写真は徳川家康が軍議を開いた時、座った石とされる。
関ヶ原の戦い-11   関ヶ原の戦い-12
 【徳川家康最後陣跡】徳川家康は、はじめ桃配山に陣を置いたが、戦況をよくつかめないため、10時頃にこの地に陣を進めた。最後まで東軍の指揮した所で、戦いが終わってからは、敵方の首実検をした所である。   【歴史民俗資料館】館内には、関ヶ原合戦の大パノラマがある。又「関ヶ原合戦図屏風」「各種甲冑」「大筒」「ほら貝」「火縄銃」など歴史的遺産が陳列してある。 
関ヶ原の戦い-13    関ヶ原の戦い-14
 【開戦地】 合戦場のほぼ中央にあって、東軍の福島正則井伊隊の旗の動きを見て、先陣の功をとられてなるものかと宇喜多隊へ攻撃を掛けたのがこの水田地帯である(標柱の位置は、ほ場整備により、かなり北へ移動している。   【決戦地】 笹尾山のふもとの田畑が広がる中に決戦地の標柱が立っている。合戦最大の激戦が繰り広げられた場所である。石田三成は最後まで応戦したが、ついに伊吹山中へ敗退した。 
関ヶ原の戦い-15    関ヶ原の戦い-16
【大谷吉継陣跡】西軍の武将で、石田三成とは親友であったため、挙兵を思い止まらせようとしたが、逆に懇請を受け出陣した。合戦前にここに陣を置き中仙道を3千の兵でおさえていた。友軍である小早川らが背いたため、壮絶な戦いの末自刃した。   【大谷吉継の墓】ライ病に冒された大谷吉継は、西軍の敗北が決定的になると、醜い顔を敵にさらさないよう家臣湯浅五助に言い残し、自害して果てた。藤川台には東軍の藤堂家が建てた墓がある。国史跡にも指定されている。米原市には介錯の後、僧・祐玄が首を持って逃げ葬ったといわれる首塚がある。(石田三成コース参照)
関ヶ原の戦い-17   関ヶ原の戦い-18
【宇喜多秀家陣跡】 豊臣政権の五大老の1人で、南天満山の天満神社の左横付近に1万7千の兵を引きつれ陣を敷いた。開戦時最初に戦ったのが東軍福島隊と、西軍宇喜多隊と言われている。無名時代の宮本武蔵が奮戦したのもこのあたりである。 
関ヶ原の戦い-19   関ヶ原の戦い-20
【小西行長陣跡】小西行長は北天満山の麓に約6千の兵をもって陣した。午前8時開戦と同時に北天満山からのろしを上げ、よく戦ったが、西軍の敗北が決まると、キリシタン大名ゆえ自決もできず、春日山中へ逃亡した。   【島津義弘陣跡】北国街道の南側小池、現在は神明神社となっている所で、鉄砲隊、刀槍隊をうまく使って戦ったが、ついには東軍に囲まれた。義弘は敵中を「すてかまり戦法」で突破したが、1、000名の兵士のうち薩摩まで帰ったのは、わずか80余名であった。 
 関ヶ原の戦い-21    関ヶ原の戦い-22
 【平塚為広陣跡】西軍の武将で垂井の城主であり、懇意にしていた大谷隊に加わって不破関付近まで進撃していたが、小早川隊の造反により藤川台にて戦死した。    【松尾山】関ヶ原の南西に位置する松尾山の山頂に小早川秀秋の陣跡がある。小早川隊の裏切りで勝敗が決したと言われている。彼は3年後に21歳の若さで狂死したという。
関ヶ原の戦い-23    関ヶ原の戦い-24
 【脇坂安治陣後】小早川隊同様東軍に寝返り大谷隊を攻める。合戦後、他の反応軍の多くが取り潰されるなか、所領安堵となった。脇坂安治は「賎ヶ岳七本槍」の1人で小谷城近くに生誕の地が残る。(賎ヶ岳の戦い参照)    【田中吉政陣跡】田中隊はここから石田隊に向かって兵を進め、笹尾山麓より撃って出る先手の兵と激突、白兵戦が展開された。戦後、田中吉政は北近江の出身で地理に詳しいこともあり、石田三成の確保を任せられた。
 関ヶ原の戦い-25    関ヶ原の戦い-26
 【福島正則陣跡】東軍の先鋒として、松尾の春日神社付近に陣をかまえ宇喜多秀家を破る    【松平忠吉・井伊直政陣跡】家康軍の中央にあたるこの地に家康の四男松平忠吉と後の彦根城主井伊直政が陣取った。島津義弘の隊に攻撃し開戦の火ぶたが切られた。
関ヶ原の戦い-27    関ヶ原の戦い-28
 【本田忠勝陣跡】旧伊勢街道に陣跡がある。忠勝は徳川四天王の1人に数えられ、三方ヶ原・長篠の戦に参戦して数々の功をあげた猛将で、戦機が熟すると、進撃し、井伊隊と共に島津隊と戦った。    【藤堂高虎・京極高知陣跡】藤堂・京極隊は現在の関ヶ原中学校付近に陣を敷き、松尾山などの西軍に備えた。しかし、小早川隊の寝返りで戦況は一変した。大谷隊と小早川隊との壮絶な死闘の真っ只中に両隊が突入し、これに呼応した脇坂隊らの攻勢も加わり、大谷隊は壊滅に追い込まれた。 
関ヶ原の戦い-29   関ヶ原の戦い-30
 【黒田長政、竹中重門】 東軍はここ丸山黒田長政、竹中重門の陣を置き、戦機熟すると開戦ののろしを上げた。重門は合戦当時の関ヶ原の領主である。   【首洗いの古井戸】首実検に先立ち、首装束のため、この井戸水を使って首級の血や土などが洗い落とされたと伝えられている。 戦国期の戦場では、首実検後は、敵味方の戦死者を弔い、供養塚を築くというのがならわしだった。
関ヶ原の戦い-31    関ヶ原の戦い-32
【東首塚】合戦後家康の命で実検後の首を葬った所である。昭和15年に名古屋市より護国院の大日堂と門が移築され、東西両軍の戦没者の供養堂となった。    【西首塚】合戦直後家康は、竹中重門に戦場処理を命じた。ここは遺体を葬らせた所で胴塚とも言われている。現在、千手観音、馬頭観音が祀られている。
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